ぐっちょむの社会復帰にっき

発達障害や躁鬱病と一緒に生きる僕の道のり

試しに遺書を書いてみた

死ぬ予定は無いので!!!試しに書いただけです!!!

皆様すみません。僕はもう生きるのが嫌なので死ぬことにしました。いままでお世話になったのにこんな形で人生を終えることになってしまい本当に申し訳無いです。しかし私は死にました。もうどうしようもなく嫌だったのです。

 
死に至るまでの経緯を説明させていただきます。長くなるので興味のある章を読んでください。人生を振り返る部分は正直どうでも良いと思いますが、自分の言葉で記しておきます。
 
まず小学生時代。
あの頃の僕は何も考えず、自己中心的な子供でした。自分を悪く言われると殴りかかっていました。高学年になるにつれからかわれたり集団的に暴力を受けたりすることもあり、とても辛い時期でもありました。しかし友達もいたので楽しく遊ぶこともありました。でも、そんな友達に仲間外れにされて傷付くこともありました。楽しい記憶もたくさんあるけどこの時期に人は自分のことを気持ち悪いだとか面白くないだとか思のだと考える様になったきがします。話が変わりますが授業中にトイレに行くと言って水を飲んだりして授業をサボったりすることがありました。
 
中学時代は小学生の頃の反省からあまり喋らない大人しい人間になりました。小学生の頃はテストで100点を取るのが当たり前だと思っていたのだけれど、塾に通い始めて勉強の出来る人間の通うクラスに入ったり、自分の偏差値を見たりして自分は勉強のできる人間なのだと自覚する様になりました。天狗になってました。阪大か京大に行ってエンジニアになることを目指してました。それなのに家では勉強せずにゲームばかりしてました。勉強をしなくても成績が良かったので天狗になっていました。そして進学校に合格しました。小学生の頃からの続きですが、課題をサボったりするために嘘を付いたり仮病を使うこともありました。
 
高校時代。
県立畝傍高等学校では地元(市内)で自分を馬鹿にする柄の悪い友人とはおさらばして新しい環境で新しい友人と新しく楽しい生活をしようと意気揚々でした。所謂高校デビューというやつです。僕は地元の柄の悪い友人を見下していました。奴らは勉強もできないしモラルも低いし人間として酷いと思ってました。それに比べて高校は平和だと喜びました。でも半年ほどして元気が無くなりました。思えば躁鬱病の始まりだったのかもしれません。テンションが上がらないが口癖で何もやる気の出ない日が続きました。 何度かのテンションの上下を経て、成績の下がり続ける自分に嫌気が差して、死にたい死にたいと思いながら寝込み仮病し通院する日々に入りました。本当に何もしたく無かった。でも高校を卒業する直前に自分が考えてた、良い大学で勉強してエンジニアになる方法以外の生き方をしても良いんだと、色んな人のおかげで思えるようになって、気分が楽になり開放された。
 
大学時代は友人に恵まれました。それまで碌にできなかった人との会話も拙いながらできるようになりました。人並みに人望を得ることも失うことも、挫折も楽しい経験もさせてもらえました。良い人に囲まれて楽しい大学生活を送りました。でも性根が腐っていたのでだらしのない異性関係を築き、破滅しました。そして大量服薬でICUに運ばれました。そんな大学生活です。良い時代でした。あとの詳細は後述するmixiのアカウントとパスワードから見てください。
 
大学を出てから。
しばらくアルバイトの掛け持ちをしていました。でも先の見えない日々に躁鬱の波が加わって日に日に死にたくなっていきました。首吊りも試しました。でもギークハウスに拾ってもらえて寿命が伸びました。ツイッターで◯ちゃんに出会って、◯◯◯さんにお世話してもらって、◯◯さんにアルバイトをもらって、◯◯に仕事を手伝わせてもらって、友達がたくさん出来て、とても楽しい生活を送ってます。あのままだと2012年を迎える前に死んでいたと思います。ギークハウスに来て、やっと本当の居場所が出来たと思いました。
 
自殺を決意するに至った心境について。
端的に言うと自分が嫌いだからです。世の中に意味も価値も見出せないからです。生きるのなんて辛いだけで本当に嫌になりました。夢はありました。でもそんなことに価値なんて無いって思うと虚しくて虚しくて。
 
周りの人は本当に良い人しかいないです。環境も最高です。両親、親族、友達、みんな良い人ですり幸せ者です。
 
家族も親族もとても良い人。いい友人に恵まれて家も仕事ももらった。友達もたくさんいる。楽しいイベントにも誘ってもらえる。頼りにしてくれる人もいる。夢も目標もやりがいのある仕事も趣味もある。でも死にたい
 
なんで死にたいんやろ。。ごめんなさい…。ごめんなさい…。